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どんなに折られても、木は光のある方へ新しい枝を伸ばし続けます
木にできるのなら、きっと人にもできるはず [療養中フォトギャラリー by iPhone (c)木口マリ] |
病気は、森をあるくことに似ている
(「ハッピーな療養生活のススメ」より 木口マリ) 病気になることは、森を歩くことと似ています。 それまで歩道を歩いていて遠くから眺めていた森に、足を踏み入れるようなもの。 話には聞いていた、恐ろしい森です。 奥は薄暗く、何があるのか分かりません。 そんな中、ひとり、歩を進めていきます。 倒木がたくさんあり、草が茂る中を進んでいくしかない。 やっとひとつ乗り越えたと思ったら今度は大きな岩があったり、川に行く手をさえぎられたり。 激しい雨が降ってくるかもしれません。 そんな森を進んでいくことに、疲れ果ててしまうこともあるでしょう。 それでも、森に入ってみなければ見えない、美しい景色を見ることもできるものです。 聞いたことのない風の音を聞き、木々の間から差し込む光を見、生命の偉大さを肌で感じるかもしれません。 歩道を歩いていては出会うはずのなかった人に出会うかもしれない。 そしてしばらくすると、同じように森へ入ってきた人の手をひいてあげたり、森を迂回する方法を教えてあげることもできるかもしれません。 森に入ったばかりのときは、足元しか見えないこともあるでしょう。 でも、どんな森にも必ず圧倒的な景色はあるものです。 病気になると、いろいろなことに消極的になる場合があります。 なぜ、病気になったからといって、何かが制限されたと思わなければならないのでしょうか。 たしかに、今までできたことができなくなることも、治療に時間を割かなければならないこともあります。でもそれは歩んでいく方向が変わっただけだと思うのです。 例えば、病気になったことがなくても、子供がいる人には子供がいる人なりの、一人で生きる人にはその人なりの、仕事を中心に生きる人には仕事人なりの道があり、苦労も喜びも、失うものも得るものも、それぞれに違うわけです。そして病気になったらなったなりの、新しい道があるものです。そしてそこには苦労だけでなく、輝きもあるのです。 ただし、ほかの人生の選択とは違い、病気は自分の意思でなるものではありません。無理に険しい道へ方向を変えさせられたといえばその通りで、辛く悔しい思いをすることもあると思います。 しかし逆に、その道へは自然に導かれたともいえます。そこには自ら選択できる道には無い「価値」が埋まっています。少し目をこらしさえすれば、険しい道中に数え切れないほど見つけることができるのです。 こんなに失くしてしまった、と思うのか、こんなに失くしたけどまだこれがある、と思うのか、 苦労を背負わされたと思うのか、背負った苦労から新しい道を進もうと思うのか、 失ったものを数えるのではなく、今この手に持っているもの、そして失ったものがあるからこそ得ていけるものを数えていくと、それは果てしなくあるものです。 「生きていればいいことがある」のではなく、「いいことは、探せばいくらでも見つけることができる」のです。 (その他の記事はこちら「ハッピーな療養生活のススメ」) |
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